民主化の時代の芸術
1892年から1940年にかけて生きた思想家、ヴァルター・ベンヤミン。
彼は、芸術が持つ「いま、ここにしかない一回性」にアウラ(Aura)が宿ると説きました。
芸術の尊さは、唯一性と、その場でしか感じられない雰囲気から生まれる。
戦前・戦後の時代、芸術は貴族的なものであり、
上流階級の嗜みとして存在していました。
しかし、カメラや映像などの複製技術が発展することで、
芸術の「一回性=アウラ」は失われていきます。
その結果、芸術は大衆化し、同時に政治に利用される存在となりました。
クラシック音楽で言えば、ベートーヴェンの音楽が
ドイツやロシアによって都合よく解釈され、
大衆の感情を統制し、政治を正当化するために使われた。
ファシズムは、芸術を「美しい政治」の演出に使ったのです。
「アウラ」を失った芸術は、利用される。
複製技術時代の芸術より
そして現代。
芸術は資本主義に利用され、大衆はコマーシャリズムに扇動され、
作品はメッセージを届けるものではなく、
「誰がどう反応するか」という市場の演出に変わってしまった。
評価されるために、“良いとされる虚像”に合わせた、
無機質で安全な展示が繰り返されている。
現代アートもまた、デュシャンの便器以降、
「劇場化」してしまったと言えるでしょう。
楽器製作の世界にも、同じことが言えます。
ストラディヴァリの“オリジナル”ではなく、
「ストラディヴァリ的であること」
つまり、概念としてのストラディヴァリが“正解”とされている。
それは、「アウラ」を失った複製技術の時代そのものです。
では、どうすればこの状況を超えられるのか。
私は、アウラを取り戻すしかないと思います。
それは、貴族的な権威主義に戻ることではありません。
「一回性」と「社会性」を両立させる営みです。
芸術は大衆に開かれながらも、
その力を批判と自由のために使うべきだとベンヤミンは言いました。
私たちがいま行うべきことは、
失われた“一回性を持つアウラ”を取り戻し、
民主化の中で、人と人が共鳴し合う場をつくることです。
パフォーマンスではなく、
思想と共に「作品」をつくり、展示し、発信していく。
その中で誰かと深く共鳴できれば、
生きていくための糧は自然と得られる。
芸術を資本主義の部品にしてはならない。
芸術は芸術として、成すべきことを成す。
そう信じて、
今日も私は静かに木を削り続けます。